「黒石ねぷた祭りの歴史」

古い記録では「山田家記」(天明6年−1786年)に「七夕祭り、例年の通り賑々しく」 とあります。毎年のように賑やかに行われたというので、これ以前から、 黒石では七夕祭が行われていたことが分かります。 ねぷたの行事を黒石では「七夕祭」とか「二星祭」、「豊歳祭」等と呼んでいました。 伝説では、昔、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のおり、大丈丸という蝦夷の首長が 岩木山に立てこもり、田村麻呂の軍を悩ましたので、 美しい人形の中に人を隠して川へ流したところ、 それに誘われて大丈丸が出て来たのを捕らえたなどといわれています。 しかし、ねぷたというのは「ねぷた流れよ、まめ(健康)の葉よとまれ」などという 歌にもあるように、睡魔のことをさします。労働も激しく、 暑さも厳しい季節に、みそぎなどの方法で睡魔を追い払おうとしたのが起こりで、 人形は元来、その睡魔をかたどったものと思われます。 旧暦の7月7日の七夕にはこの「ねむり流し」といって、 夏の睡魔を流すための習わしが全国各地にあったようです。 天保二年(1831 年)から明治四年(1871年)までの日記である 「分銅組若者日記」にも、「七夕祭」の名称でねぷた行事に関する事柄や、 ねぷた燈籠の絵が数多く記載されています。 他所には明治以前のねぷたを描いた絵が2、3 しかなく、古い絵図では 寛政5年(1793年)の「奥民図彙」に縦長の燈籠の絵がありますが、 いつどのようにして、今のねぷたになったのか不明な点が多いのです。 その点、80余に及ぶ多くの絵による記録を持ち、 歴史的な変遷を知ることが出来る黒石ねぷたは、まさに貴重な存在です。 明治11年に、たまたま黒石の七夕の時期に来合わせた、 イギリス人バード婦人が「日本奥地紀行」原著名「UNB EATEN TRACKS IN JAPAN 」に、 「大きな提灯には様々な神秘的な絵が極彩色で描かれている。 提灯と言うよりも、むしろ透かし絵である。 それを取り囲んでいるのは、何百という珍しい形をした扇や魚、烏、凧、太鼓などの 提灯や透かし絵であり、何百人もの大人や子供がそれに続き、 みな丸い提灯を手にしていた。」と、その華やかさを記述しています。 黒石ねぷた祭の形態が、現在のように黒石市内及び、近隣町付の町内会、 あるいは、各ねぷた会ごとに運営されるようになったのは戦後であり、 昭和30年からは黒石青年会議所が主催しています。 子供を中心とした3世代交流による、市民総参加の祭として 平成5年4月16日にその独自性を認められ、「県無形民俗文化財」の指定を受けました。




「こみせ通りの歴史」

『日本の道百選』にも選ばれた伝統的建造物が残る黒石市中町どおりのこみせは、黒石藩政時代から今に残る木造のアーケード状の通路です。 現在、まとまった形で残されているのは全国的にも類例がないといわれ、こみせ通りには、国の重要文化財の「高橋家」をはじめ、造り酒屋、住家などの「こみせ」が連なる町並みを形成しています。昔は雨の日でも傘がなくても町の中を歩くことができたくらいです。夏は暑い日差しをさえぎり、冬は吹雪や積雪から人を守り、軒を連ねていた商家はもちろん人々にとってはなくてはならないものでした。  平成16年に黒石市は歴史的景観保存条例を制定し、平成17年に文化庁による重要伝統的建造物群に選定され、町並みの保存・修理活動を展開しています









「スポカルイン黒石」

アリーナの屋根は、日本三大流し踊り『黒石よされ』の”とごまんぽ”(『黒石よされ』でかぶる笠)を表し、またそれを囲む回廊は『こみせ』を表現してあります。さらに、駐車場中央通路には津軽系『温湯こけし』、その頭部には『黒石ねぷた』をモチーフとした前庭等々黒石市の歴史、伝統、文化をよりよく調和させております。











「黒石よされ」

 起源は、山岳宗教が盛んであった500年から600年前で、盆踊りの時の男女の恋の掛け合い唄であったといわれています。黒石の盆踊りが盛んになったのは、天明の頃(約200年前)時の家老、境形右衛門が城下町に人を集める商工振興対策として力をいれてから、今に受け継がれています。幕末の頃の黒石の盆踊りは「金正日記」によると「つづみ、太鼓、三味線、その数を知らず」とあり、その盛況さがうかがわれます。
 ■日本三大流し踊り
 黒石よされは「日本三大流し踊り」の一つとしても有名です。
 下の「阿波おどり」と「郡上踊り」の文字をクリックすると、徳島県と八幡町のホームページへリンクします。
 阿波踊りと郡上踊りの魅力をたっぷりとご覧下さい。









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